私たちは、一生運命との「鬼ごっこ」をしているのだなと思うことがあります。自由意志という幻想を抱えて、童謡じゃありませんが、「どんなに上手に隠れても」必ず掴まってしまうように出来ている。しかしそれが幸か不幸かも人智を超えているのです。
ナチスの強制収容所アウシュビッツで、文字通り九死に一生を得て生還したユダヤ系精神科医ヴィタ・フランクルはそのホロコーストの強烈な体験を、その著『夜と霧』に如実に描いておりますが、その中のペルシャの寓話を用いた次の一節は、運命との「鬼ごっこ」について、深い示唆を与えているように思います。話中の召使いもフランクルも運命という鬼に掴まった。何故?
金持ちのペルシャ人が、あるとき召使いを連れて庭を散歩していた。すると、突然、召 使がふるえだした。どうしたのだ、と聞くと、彼は青い顔をして、たったいま「死」に会って、ひどくおどかされたのだと、と答えた。それは大変だ、といって主人はいちばん 速い馬を彼に与えて逃してやった。召使はその馬に乗って一目散にテヘランへ逃げて行った。彼が去ったあと、こんどは主人が「死」に出くわした。そこで彼は「死」に向かって、あんたはおれの召使をえらくおどかしたそうじゃないか、となじった。すると「死」はこう答えたというのである。
「とんでもない、おどかされたのはこっちの方だ。あの男がいまごろ、こんなところをぶらついていたからさ」
「なんだって」
「じつは、わしは今夜、彼とテヘランであうことになっているんだ」
東洋では、「人間万事塞翁が馬」という言葉があり、洋の東西であまり違いのない運命の受け止め方をしているようですが、運命という人生のこの容れ物は一体何なのでしょうか。この巨大な容器の中で、不思議の感を禁じえず生と死を繰り返してきた人間というこの存在の不思議。近代文明から逃げ出し、タヒチで世界に改めて向き合った画家ゴーギャンの言葉「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」というアポリアは、今も解けてないといってよいでしょう。
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