秋男の「生きるヒント、死ぬヒント」⑨『日本人の魂の古層⑨:日本人の感性』

金山秋男

日本人の宇宙観(コスモロジー)の特徴を示すものは、神と人と自然が分離せず、常に連絡して生活が営まれてきていること、それはまた、お盆や各種法要などにみるように、死者の世界(あの世、彼岸)と生者の世界(娑婆、此岸)とが連続しているという感性でありましょう。

そして、このようなまた日本人特有のメンタリティが独特な霊魂観や他界を生んだといってもよいでしょう。

それでは、それを受け止める日本人の感性とはどのようなものでしょうか。

たとえば、老病死を文化史、生活史から追求してきた立川昭二氏も言っているのですが、日本人には相対立する概念をそのまま受け入れ、含み込んで生きるという、他の民族にはみられない特異性があります。その証拠に、日本語ほど対立する語をつなげて一つの境位や世界観を表す単語を作り出した言語はほかにありません。

たとえば、愛憎、生死、清濁、表裏、緩急、美醜、苦楽、濃淡など、思いつくままに例をあげても切がありません。しかし、これらば単に相反する語を並べただけでなく、むしろ相対立するものが互いにつながり、時には溶け合い、微妙な意味合いを持って新しい次元と境位を開いているのです。生死が一如とはよく言われることですが、「可愛さ余って憎さ百倍」という如く愛憎も同様で、緩急は自在で、清濁は合わせて飲み、苦楽も表裏も一体であるという、これらの熟語は日本人特有の感性に裏打ちされているといって良いでしょう。

そして、このような言葉を日本人が好むということ自体、対立した二つの概念の向こう側、あるいはその間(あわい)に、なにか表層の現実を超えた真実の位層を日本人が探り出そうとしてきたからにほかなりません。私たち日本人は月の光のことを、ときに「月影」といったりしますが、月という神秘性の、光に影を、影に光を、要するに色(しき)と空(くう)とを同時に観る日本人特有の表現といってよいでしょう。

また「濃淡」という言葉にしても、濃と淡とを別次元とみるよりも、むしろ、山水画にみるように、濃から淡へ、淡から濃へと筆の動きが生み出すグラデーション、その連なりの微妙な味わいをこそ、引き出そうとしているといっても良いでしょう。

むしろ、相対立するものを丸ごと呑み込んで、たがいに溶け合い、そこに生まれる境位を楽しむ。そこに古来、和歌や俳諧などの文芸や能や茶の湯などの芸道によって培われてきた、日本人特有のメンタリティを見出すことは難しくありません。

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