秋男の「生きるヒント、死ぬヒント」①『ある武士の死の受容』

金山秋男

大石主税といえば、大石内蔵助の長子で、吉良邸討入のとき、裏門をかためてた副将でしたが、当時元服を果たしたばかりのまだ15歳。弟と妹たち四名は後難を避けるため、母とともに事前に絶縁されていたといいます。

討入り前、豊岡に母を訪ね、一夜を過ごしますが、その最後の別れには、この武家社会特有の抑制された母子関係が凝縮されており、かえって涙を誘います。その時のあり様が、うちあけられた同志、小野寺十内を通して、後に母に届けれれた手紙が残っております。

蒲団を通してほのかに母の温もりがかよってきた様におもわれまする。しかし眼を明けて母に気まずい思いをさせてはならじと一心に眼を閉じておりましたが、まなじりから涙がにしみ出して仕方ありませんでした。

このような主税の最後、すなわち切腹の場面を山田風太郎はその著『人間臨終録図鑑』で次のように描いている。

討入り後、父と別れて松平隠岐守邸に預けられるとき、父の内蔵介が、「かねがね申し聞かせてあるようにいたせ」と、いったのに対し、「父上、御心配なく」と、答えた。翌元禄十六年二月四日午後四時ごろ、切腹の呼び出しを受けたとき、堀部安兵衛が、

 「拙者もただいま」と、声をかけた。主税はにっと笑って、死の座へ出ていった。

  このとき検使の席にあった松平隠岐守が、万感迫った顔で、

 「主税、内蔵介に会いとうはないか」

 と聞いたところ、主税は首をかしげ、すずしくほほえんで、

 「お言葉で思い出しました」


次々にに死を待つ同志の中で、ひとり憂わしげな顔をしていた大高源吾は、この年少の副頭領の最後が「おみごとなものでござった」という報告を受けると、みるみるはれやかな表情になったという。

大石主税の辞世の句、

 あふ時はかたりつくすとおもへども

 別れとなればのこる言の葉

彼の静かな臨死の底には、15歳では語り尽くせぬ万感の思いが息づいていたであろう。

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