とかく私たちは、自分を中心にして事物を見るものですから、自分の周りの事象しかみえず、それが無限の歴史や宇宙の摂理の展開の中で、どのような意味や位置づけをもっているのかを忘れて生きております。
日本の宗教やそれに基づく文芸や芸術、芸能も、それを踏まえて全体性を求めて発生した筈なのに、私たちは物欲や名誉欲などにまみれ、周りの世界を都合よく分節化し、断片化して生きてきたようです。茶の湯の創成期、千利休の師で俳諧師でもある武野紹?に請われて、花を活けた池坊専応の出来映えに感心した紹?が、どのような心境でこの花を活けたのかという問に、専応は次のような歌で応えたといいます。
目をとめて見ねばこそあれ
武蔵野の
草の葉ごとにをける白露
目をとめて見ねばこそあれ
春の野の
芝生隠れの花の色々
私たちは「目をとめて」しっかり見ることを要求されがちですが、そのことでその一物あるいは部分のみはよく見えるようですが、実はその一物や部分が置かれている全体が見えないのみならず、その部分すらも実は見えていないのです。
少し難しいことを申してすみませんが、この辺の事情を、たとえば林語堂は次のように言っております。
物事を見るのと何も見ないのとは大変な違いである。物事をみて歩く多くの旅人たちは、本当は何も見ていない。何も見ない多くの人たちは、本当は多くのものを見ている。
何か禅問答のようですが、多分真実はこういうことでしょう。私たちはえてして自分に都合のいいものを、都合よく見ておりますが、池坊専応は我欲が吹っ切れた、無心の目でものをみているということ。そうでなければ、「草の葉ごとにをける白露」や「芝生隠れの花の色々」など、何の珍しさもない当たり前なものは目に入って来ない、ということなのです。
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