金山秋男の「生きるヒント、死ぬヒント」⑭『人間の死に方「高さと低さ」②』

金山秋男

前回のブログを補完するために、やはり同じ頃、肺がんで亡くなった北海道斜里町の浄土真宗西念寺住職夫人、鈴木章子さんにも触れておきましょう。まず、すでにご自分のがんを告知されていた彼女が、父親と母親を相継いで亡くされたあとの文章から。

別れの悲しみはありますが、むしろ私の還りゆく所が明らかになりました。父母が逝ってからは、山から地から、空から木立から、いのちの息吹が伝わってまいりまして、それらのいのちと溶け合って、父母のいのちが流れているのを感じ、今までになく、お浄土が懐かしく感ぜられます。(中略)私の死を縁として、今のこの私の充足が子供たちにも訪れることが、私の不思議 な現状を通じて明らかでありますので、死ぬこともまた、生きてともにすることと同じ有意義なことだと満足です。

ご自分の死を目前にした彼女は、その直前の父母の死をキッカケにして、父母のみならず、生きとし生けるもののいのちが「山から地から、空から木立から」流れ来たり、流れ去っていくのを実感しております。しかも、「それらのいのちと溶け合って」、ご自身の父母のみならず、無限に遡行する祖父母たちと、やはりご自身の子供のみららず、無限にそのいのちを継承していくであろう無数の子供たちをつなぐ一点として、ご自分の生死を受け止めていることは明らかですね。

たしか47歳で亡くなった彼女ですが、この境位に立てば、47年前初めて生れた訳でも、47歳を最期に消えていくわけでもありませんね。永遠かつ無限のいのち(無量寿、無量光=阿弥陀仏)に即して今を生きている彼女は、ひとまずこの世から退出するのみ。それが「今までになく、お浄土が懐かしく感ぜられます」ということにほかなりません。従って、既にこのような絶対安心の境位が開かれた彼女に、ご自分の死と直面したときも、次の詩のように、過去と現在と未来のいのちの息吹が、如来の説法として聞こえてきたとしても、何の不思議もありません。

 説法はお寺で
 お坊さまから
 聞くものと思ってましたのに
 (中略)
 肺癌になってみたら
 あそこここと
 如来様のご説法が自然に
 聞こえてまいります
 このベッドの上が
 説法の一等席のようです

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