金山秋男の「生きるヒント、死ぬヒント」⑪『人間の生き方『仏と衆生の呼び交わし』』

金山秋男

私の好きな三好達治の詩作品から一つ。題して『わが名をよびて』

 わが名をよびてたまはれ
 いとけなき日の呼び名もて我が名をよびてたまはれ
 あはれいまひとたびねがいとけなき日の名を呼びてはまはれ
 風の吹く日のとほくよりわが名をよびてたまわれ
 庭のかたへに茶の花のさきのこる日の
 ちらちらと雪のふる日のとほくよりわが名をよびてたまはれ
 よびてたまはれ
 わが名をよびてたまはれ

ここで詩人が「わが名をよびてたまはれ」と呼びかけている相手とは、一体だれなのでしょうか。なによりもまず思い浮んでくるには、私たちそれぞれの母親のこと。私たちの耳の底に今も残る、あの日のあの時の私を「いとけなき日の呼び名もと」呼んでくれた、あのお母さんの声。

けれど、この詩の奥行きは、単に幼き日を懐かしんでいることにとどまるものではありません。「いとけなき日」とは、私たちがまだ迷いも、苦しさも、悲しみも、切なさも、知らず、ただ無邪気に生きていたあの頃のこと。

幼少時は誰でもカミの子で、たとえば沖縄では七歳で「ユノリ」(世替り)として、そこからこの世における人間の生が始まる。そのような信仰や習俗は各地にみられますが、私たちの実感に照らしても、「いとけなき日」の子供たちは、まさに神仏の子供にちがいないと思われますね。

とすれば、「いとけなき日の呼び名もてわ名をよびてたまはれ」とは、かって仏であった時代の無垢清浄な心をまた、私に呼びさまして欲しい(という)、仏さまへの私たちの内心の呼びかけにすぎないと解釈することもできます。

無論、仏さまからの呼びかけがなければ、私たちの呼びかけも始動することはありませんが、私たち穢れた衆生がなければ、仏さまからの呼びかけもなく、存在意義もない。つまり、ここには絶対者と相対者との呼び変わしがあることになるのです。

人は成長するにつれて、仏(性)を見失い、世間を愛し、それに執着するよになります。友を愛し、子供を愛し、金を、異性を、地位を、名誉を愛し、そうすることで自我を確立し、同時に聖書の「放蕩息子」のように、親元(神仏)の世界から遠去かっていくのです。

このような一種の楽園喪失を受けとめない人々はそれで結構なのですが、たとえば中原中也のような文学的感性の鋭敏な詩人は、現世における成長を、有名な次の詩『汚れちまった悲しみに』のように、取り返しのきかない汚と受けとってしまう感性もあるのです。以下肝腎な章句のみ。

 汚れちまった悲しみに
 今日も小雪が降りかかる
 汚れちまった悲しみに
 今日も風さえ吹き過ぎる
 <中略>
 汚れちまった悲しみに
 いらだたしくも怖気づき
 汚れちまった悲しみに
 なすところなく日はくれる

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