秋男の「生きるヒント、死ぬヒント」⑤『I先生の思い出』

金山秋男

もう23年以上前のこと。私は郷里に帰った折に、中学時代に私をかわいがってくれ、私も最も敬愛していたI先生を訪ねたことがあります。校長を最後に退職された先生は、定年後も実に立派な生き方をされておりました。あまりお酒をお呑みにならない先生も、その晩は多少お付き合い下さり、思い出話や私のやることなど、様々な話に花が咲きました。そればしみじみとした楽しい時間でした。

その頃、先生は数年前に奥様を亡くされ、身の周りの世話に隣家のお嬢さんにみてもらう一人暮らしでした。やがて、お嬢さんも帰り、私も失礼しようとしていたとき、突然、先生は居ずまいを正し、昔の教え子を「君」ではなく、「さん」をつけて呼んでくださって、「僕は誠に恥ずかしいのだけど、この頃、死ぬのが恐くて仕方がないんだ」といわれたのです。

私もこの一言を聞いたとき、居ずまいを正さざるをえませんでした。このような言葉を30近くも若い私に真摯に投げかけてこられる先生が80年近い人生を真剣に生きてこられたかを改めて痛感したからです。

仏教でいう因果の法則。全ての現象はこの中で消滅し、人も生れれば、必ず死なねばなりません。私たちが何かの行動をすればその結果も必ず生まれます。みなこの法則に従って努力し、その成果が成長や発展を生み出しているわけです。

しかし、このような善因善果の中で努力し、成果をあげた人ほど、最後に突き当たる大きな壁、すなわち老病死が超え難いものとして立ちはだかるのです。どんな素晴らしい成果も、いつかそれもご破算。あらゆる現象は「成住壊空」つまり、生じて、しばらく存続するが、やがて壊れて元の空に帰っていくというのが仏教の基本です。

ただ、仏教によれば、存在するものは必ず尽きるが、その根底にある「空」は尽きることなく「不生不滅」であるというのです。人のいのちも無常の変化の中で、生れては消える泡のようなものですが、その一瞬の命が「空」に照らされつとき、今度は一瞬即永遠という深い次元のいのちを生き始めるのです。

このように、仏教の最良の部分には、万象を空しいと観じた時に、「般若心経」の「市規則是空」から「空即是色」への反転の論理も、私たちの生が刹那である故にこそ、一刻一刻の行為や関係に帯びる、鮮烈な愛おしさの感覚の大切さを、私たちに示唆しているといっても良いでしょう。

先生と過ごした束の間の時間は、お互いがやがて死すべきものとして、そこに出会ってうるといることの不思議さ、愛おしさに包まれておりました。

帰宅後、先生には「般若心経」の入った薄い経典と『歎異抄』をお送りしました。数年後、先生も他界されましたが、葬儀の時にお嬢さんにみせていただいたその二冊はどちらもぼろぼろ。最後まで肌身離さずお読みになっておられたとのことです。柩に中へ入れて差し上げました。

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