秋男の「生きるヒント、死ぬヒント」③『悪(罪)人とは?』

金山秋男

かつて『歎異抄』について書いた文章を、少し手を加えて転載いたします。この書はいわゆる「悪人正機」でも有名ですが、そもそも「悪人」とはどういう人のことを言うのでしょうか。これは人間の煩悩の自覚から生れるもので、世に言う犯罪者を指している訳ではないことは言うまでもありませんが、有名な「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」も、解きほぐせば次のような意味になると思います。すなわち、「自らの悪について無自覚な者さえ救われるのだから、日々自ら悪に悩む者が救われないはずはない」と。自覚さえすれば、悪人でない者などいないのです。

私たちはみな凡夫で、出来損ないにすぎませんが、見渡せば周りにはいろいろな人がおり、その中には頭が切れ、何でもよくこなし、また自分の能力になんの疑いももたない人も少なくありません。

他方で、自分に力のないことをよく知っており、出来損ないで、ヘマばかりしておかし、人から責められても、自分なりに一所懸命やろうとし、愛に傷つき、せつない涙を流している人々。私はなぜかこの後者の人たちに愛しさや懐かしさを感じてしまいます。良寛さんが愛した古語に、

 君看よ 双眼の色
 語らざれば 憂い無きに似たり

というのがあります。意訳すれば「あなた、あの人の双つの眸をよくごらんなさい。彼は何も語らないから、これまで何の憂いなどないように思っているけど、人の世の辛酸をなめ尽くした深い影が、その底には息づいているのですよ」とでもなるでしょうか。

また、私たちは、えてして自分の弱みを簡単にさらけ出してしまいがちです。甘えることで、耐えることの苦しみを安易に放棄しております。そのことで心の深さも失われしまうことも気づかずに。仏教詩人坂村真民さんに次の詩があります。題して「かなしみはいつも」。

 かなしみは/みんな書いてはならない
 かなしみは/みんな話してはならない
 かなしみは/わたしたちを強くする根
 かなしみは/わたしたちを支えている幹
 かなしみは/わたしたちを美しくする花
 ななしみは/いつも枯らしてはならない
 かなしみは/いつも堪えていなければならない
 かなしみは/いつも噛みしめていなければならない

私たちも、よく自分が「悪人」に思えて仕方ないときがありませんか。欲に目がくらんだり、人や物を粗末に扱ったり、人に辛くあたったり、つい人の悪口をいってしまったり、と。そのようなときこそ、私たちのそばに阿弥陀さんがいて下さり、涙を流して下さっているのを知るときなのだ、と、「歎異抄」は教えてくえているのです。

親鸞聖人は、悪人の自分を決してきらいになれない人でした。だって悪人の私を大好きなのが阿弥陀さんだと分かっていたし、そのことで阿弥陀さんといつも一緒に居られたからです。

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